【文/Discover Taipei】
台北も世界の多くの有名都市も同様に河口付近や河川沿いに発展してきましたが、その台北はなんとかつて湖だったのです。そして荒野だった盆地が徐々に発展し、現在の国際都市へと成長を遂げたのです。台北市の発展は、波瀾万丈の歴史の変遷とともにあったといえます。
かつて湖だった台北
1697年夏、清から渡ってきた郁永河が台北盆地で硫黄採取をしていたころ、台北はまだ水はけの悪いぬかるみでした。郁永河が著した『裨海紀遊』、清の時代に作成された地図『康熙臺灣輿圖』には、かつて地震で「康熙台北湖」が形成され、台北は湖に覆われていたと記載されています。また、100年ほど前に日本人が初めて実測により作成した台北の地図にも、艋舺蓮花池、雙連埤、大安龍安陂、内湖など、康熙台北湖の名残をとどめる池が記載されています。
郁永河は『裨海紀遊』で、その台北の大きな湖一帯を「人けのほとんどない荒れ果てたところ」と記述しています。そしてその12年後の1709年に発行された政府の開拓許可「開墾契書」が、台北の歴史を変えました。
台湾人の先祖による台湾移住と開拓
台北の開拓史をひもといてみると、圓山貝塚、台北植物園遺址、芝山岩文化などの異なる時代の先史文化が確認されます。中国から漢民族が移住するまで、平野部に住んでいた原住民の平埔族に分類される凱達格蘭族(ケタガラン族)が、台北で漁や狩猟だけでなく、農耕を行って生活を営んでいました。このことから、当時の一部のケタガラン族が、灌漑用水の基礎を作っていたことがうかがえます。芝山文化生態緑園にある芝山岩展示館に足を運べば、豊富な展示を通して、当時のケタガラン族がどのような生活を送っていたかがわかります。
1684年、台湾が正式に清の領地に組み入れられると、福建人、広東人、漢民族が大挙して台湾に渡り、農地の開墾に励みました。そして18世紀に入ると、稲作を得意とした漢民族の移住者により、台北盆地の開拓が始まりました。現存する書物によると、1709年に陳賴章を筆頭とする開拓団が、初めて政府の開拓許可を取得したと記載されています。当時、陳賴章が開拓の許可を得たのは、台湾北部の大佳臘と呼ばれていた地域です。その面積は数百平方キロメートルと広大で、現在の台北市に属する艋舺(現・萬華)、加蚋仔(現・南萬華)、大龍峒、大稻埕、錫口(現・松山)、そして新北市(旧・台北県)の汐止、中和、永和、八里、三重、蘆洲、泰山、新莊と広範囲におよびます。
港町、門前町、市街地からなる町
1740年から1770年にかけては、天災や人災、動乱が比較的少なかったのと、淡水河(河川)沿いの新莊や艋舺には役所があり、治安維持や水の保全に力が入れられたことから、農地、米の収穫、漢民族の開拓街ともに年々増加していきました。そして新莊の大漢溪(河川)沿いのエリアで収穫された米などの農作物は、新莊老街に集荷され、船で輸出されるようになりました。ところが大漢溪上流で堆積が起き、新莊は寂れていきました。逆に近隣の艋舺や三峽が、樟脳や染料のリュウキュウアイで栄えるようになり、19世紀半ばにはお茶で大稻埕が繁栄し、台北がかつて台湾の最大都市だった台南に取って代わるようになったのです。
艋舺はもともと淡水河沿いで生活を営む原住民の集落でした。それが清の時代になると、「港町」「門前町」「市街地」からなる商業の町として発展するようになり、日本統治時代には「市区改正」「鉄道の敷設」「公共施設の整備」などの近代化が行われました。それで下町である艋舺に、新旧が交錯する街並みが形成されるようになり、かつて大稻埕、台北城(現在の台北駅の南側周辺)と並んで「台北三市街」と称されていました。
台北城完成130周年
清の時代末期(1880年ごろ)、初代台湾巡撫(台湾の最高地方統治官)の劉銘傳により、「海防の強化」「原住民の撫育」「農地の測量」などの政策が実施されたほか、鉄道や海底ケーブルの敷設、郵便や電報事業の立ち上げ、電気の整備、石炭採掘の推進、新たな教育機関の開設など、台湾の近代化につながるインフラ整備が行われました。
沈葆楨が福建巡撫(台湾巡撫が設置される前の福建と台湾の最高地方統治官)の時に、台湾北部に台北府、淡水県、新竹県、宜蘭県の一府三県を設けるべきだとする建議書「台北擬建一府三県」を上奏したことで、1880年代には台湾の政治の中心が台南から台北へ移り、台北が政治と経済の中心になり、清の朝廷により艋舺と大稻埕の間の未開の荒野に城郭都市「台北城」が築かれました。台湾の城郭都市の歴史から見ると、台北城は早くから発展してきた澎湖の馬公城、台南府城、新竹の竹塹城などに遅れを取ったものの、後に台湾最大の城郭都市へと成長します。そしてその大きさは台南府城に次ぐ規模で、城壁の周囲は竹塹城と同じく5キロほどあります。
台北は台北城が完成してから数年で台湾でもっとも現代的な都市へと変貌を遂げ、台湾の政治、文化、経済、社会の中心になりました。そしてその傾向は日本統治時代に入ってからさらに強まり、市区改正、都市計画、鉄道の敷設、バスの運行、電気や電信、郵便、上下水道の整備、病院の設置、教育制度の実施、博覧会の開催、公園や博物館、公会堂などの娯楽・文化施設の建設、遊休地の再利用などが行われ、社会運動や庶民文化にも変化がもたらされました。
便利で環境にやさしい国際都市
台北城の発展の歴史は浅く、台北という都市の規模もニューヨーク、ロンドン、パリ、東京、上海などの世界的な大都市には及びませんが、自由で便利で環境にやさしいといった点では逆にほかの世界的な大都市が台北に遠く及びません。特にグルメ、夜市、無料の公衆無線LANサービス「Taipei Free」、ゴミ非放置政策などは、市民に便利な生活、そして観光客にやさしい旅行環境をもたらしています。それで台北市は何度か世界のメディアに取り上げられ、海外での認知度と競争力が大幅に向上しました。
台北市を訪れたことのある観光客は、まず、至る所にあり、さまざまなサービスが提供されている24時間営業のコンビニに驚かされています。そして便利で清潔で乗客のマナーもいいバスやMRTなどの公共交通機関に感銘を受けています。ただ、環境保護方面の台北市の政策については、多くの観光客に知られていません。例えば世界でほかに類のない「ゴミ非放置政策」。ゴミを出す際は、毎日定時に決められた場所にやってくるゴミ収集車に直接投入しなければならないという政策です。また、ゴミの分別も行われ、リサイクルに役立てられています。それから最近台北市ではやっているレンタサイクル「YouBike」も、環境保護と市民の利便性を両立させた台北市の政策の新たな成果です。この台北市民が市街地を自由に移動できるレンタサイクルは、便利な交通手段、二酸化炭素削減、低料金、健康を訴求しているだけでなく、台北の永続的なグリーン都市としての発展に貢献しています。
荒野から先進都市に発展し、さらにシンプルな都市へと変貌を遂げた台北市には、他の都市にはないメリットがあります。また、他の都市のメリットも台北市は備え、湖だった町が豊かなエネルギーを蓄え、新たな100年の繁栄に向かって邁進しています。
関/連/情/報
芝山文化生態緑園
住所:台北市雨聲街120号
電話:(02)8866-6258
※英文版:
‧From Wasteland to Capital: Taipei Past and Present
【Discover Taipei 2014年03月號】
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